リーマンショックから16年がたった。多くの人があの夏を忘れることはないだろう、私も一生忘れることはないと思う。リーマンが破綻した直接的な引き金は、アメリカ政府が公的資金を使って救済をしなかったことであることは間違いない。金融機関の救済が当たり前になった今では考えられないが、当時のアメリカの政策決定の最高責任者たちは「税金で民間企業であるリーマンブラザーズを救済することは納税者が許さない」という意見で一致したのだ。
この決定をしたのは、ノーベル賞を受賞したバーナンキFRB議長、ゴールドマン・サックスを世界一の投資銀行に押し上げた最大の功労者ポールソン財務長官、そして合衆国憲法が定める最後任期があと数か月で終わりもう有権者のご機嫌取りをする必要がないブッシュ大統領だ。彼らの決定は当時としては当たり前だったのだろう。今でも彼らの決定を責める声はそこまで多くないように思えるが、リーマンの地獄を経験したアメリカ人の変わった。その結果がコロナ後のインフレで破綻したシリコンバレー銀行等の迅速な救済だ。「リーマンを繰り返すな」という大声はゴリ押しに近いように感じられたが、結果としてリーマンは繰り返されていない。
さて、リーマンショックの遠因となった斎藤栄功(懲役15年)という人間が日本で引き起こした371億円の詐欺事件をご存じだろうか?この現象には投資の世界での二つのビッグネームが登場する。ゴールドマン・サックスとウォーレン・バフェットだ。この二つの名前が独り歩きし、巨額詐欺事件が起こり、巨大投資銀行が破綻した。
斎藤が起こした詐欺事件は単純なもので、丸紅の一社員の山中譲(懲役14年)と結託しその権限がないにもかかわらず、丸紅が債務保証する旨の偽造された書類を差し入れて外資系金融機関から1000億円とも1500億円ともいわれる大変な金額の金をだまし取ったのだ。
斎藤は本物の元大手外資系証券会社の社員であり、山中も本物の丸紅の現役の社員だった。そんな経歴の人間が書類を偽造するわけがないという先入観からか、彼らのスキームがあまりに巧妙だったのか、最初に出資に応じたのはゴールドマン・サックスだった。ゴールドマン・サックスは「最初に」100億円を出資した。
この瞬間から、丸紅の偽造された書類より遥かに強力な詐欺の道具が誕生した。「あのゴールドマンが100億円を出した」という事実である。その厳然たる事実の前では、丸紅の書類が偽造か真正かなどどうでも良いに等しい。この瞬間に他の金融機関はほとんど出資に応じる義務を負ったようなものだった。「ゴールドマンが出したのだから間違いない」、「ゴールドマンに独り占めされる」、「ゴールドマンに後れを取るな」というグル信仰を根拠に多数の一流金融機関が詐欺師に金を出し続けたのだ。
正解がない投資の世界では、「勝っている人のマネ」を必勝法だと信じる人がいる。それをグル信仰と呼ぶ。しかし、これをしたところで「お金」という魔力を目の前にしたとき、人は本能に従って行動するためマネをしているようで全くマネなど出来ないのだ。さらに言えば、本当に勝っている投資家はごく僅かで彼らが手口をやすやすとすべての手口を明かすわけがない。実際、騙されているだけのゴールドマンの行動をマネしたリーマンはババを掴まされ、371億円の焦げ付きを出すことになる。
もちろん、十兆円単位のバランスシートを持つリーマンにとって日本での数百億など大した問題ではなかった。しかし、信用不振に陥ったリーマンにとって思わぬ打撃となることになる。それはこの詐欺事件が明るみになったタイミングがちょうど、ウォーレン・バフェットとの救済交渉と重なったのだ。
リーマンのファルドCEOとバフェットが面談したとき、ファルドは絶対に知っているはずのこのタイムリーな詐欺事件について一切言及しなかった。ファルドからすれば聞かれていないことには答えようがないと思ったのか分からないが、事前にこの詐欺事件を知っていたバフェットはファルドを不誠実な人物とみなしたと同時に重要な投資アイデアを得ることになる。「こんな情報開示すら出来ないリーマンは、自分以外にもう頼れる者がいないのではないか?ともすればリーマンの状況は想像以上に深刻である」というアイデアだ。
この出来事が決定打になったか分からないが、バフェットはリーマンの救済を拒否し、リーマンは破綻した。奇しくもバフェットはリーマンを救済しない代わりにゴールドマンから50億ドルの優先株を引き受けた。リーマン破綻からわずか1か月後のことである。
結果だけ見れば負債総額6,000億ドルのリーマンが50億ドルの資本注入でどうにかなる話ではなかった。それ以上に重要なのは、「伝説の投資家のウォーレン・バフェットが検討の結果、救済しなかった」という事実に対するグル信仰だ。まだ助かるか分からないリーマンにとってこの事実は、「バフェットが見捨てたということは誰も救済できない」「バフェットの投資判断に逆らえる自信がない」「リーマンは終わりだ」という金融業界のコンセンサス形成し、全ての救済者が手を引かせるのには十分な材料だった。
得られる教訓としては、「多くの投資家、いや人間はビッグネームに弱くグル信仰に陥りやすい」ということと「グルの行動は必ずしも正しいとは限らない」ということだろうか。ビジネスに際しては、最も名のあるところと組むのが一番良い。これを利用しない手はない。また、「あの人が良いというから買う」「あの人がダメというからやめておく」という他人の意見が唯一の判断材料である場合、冷静な判断ができていない場合が多い。人の意見の中で重要なのは誰が言っている、ではなく、なぜそう言っているか、だろう。